さかなの瞼

diary of chapter6

Photobackさんでフォトブック。3冊目

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3年目の浮気もなく、 #photoback さんで3冊目。 #photo #life

相変わらずスマホで撮る画像は減る傾向もなく、どんどん増殖中。1年間だとその数は数千を軽く超えるのでフォトブックにするにも写真の選定から一苦労です。きっとこの先数年は似たような感じなのかもしれないけど、きっと子供の成長とともに写真の数も減ってくるんだろうな。そうなったら流石に年1冊ペースは難しいのかもしれない。例えばその内複数年で1冊…みたいになるのだろうか?止め方も難しいなぁ…なんてことを考えたりする今日この頃。まぁその内フォトブック自体が過去のものになるのかもしれないが。

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漁港の肉子ちゃん

漁港の肉子ちゃん (幻冬舎文庫)

漁港の肉子ちゃん (幻冬舎文庫)

 

普通に面白かったのだけど、やはり大衆小説は自分にとって娯楽の域を超えないし、ソレに時間を費やすのは費用対効果としてあまり得策でないということを改めて感じた。まぁ通勤電車の中でスマホに流れるくだらないSNSの類を眺めるよりは意味のある行為のようには思うが。そうゆう意味では年に1冊位は読んでもよいのかも?

人の目を気にせず空気を読まずありのままの…とか書くと例の映画みたいだが、それに比較して人の目が気になり空気も一定読めてしまう繊細さ。その両極端な親子が寂れた街で織りなすあんなことこんなこと。といった物語。前者は見た目も太っていて不細工で?でも皆から愛されて??後者はその逆?

なんとなく言わんとしていることが、太っていても不細工でも他人を気にせずありのままでいることの素晴らしさ。的な含みもあるのだけど(勿論それだけではないが)果たしてそうだろうか?きっと誰からも愛されるであろうそのキャラは、だからといって自分がその立場になりたいというのとは別な気がする。うがった見方をすれば、それは…無意識のどこかでほんとは見下していて、繊細な自分に優越感を抱いているだけではないか?他人を気にせずありのまま振舞えることを表面的に羨むも、他人を気にして素直に振る舞えない自身もそれはそれで十分愛おしい存在なのではないだろうか?つまり誰からも愛されるというのは言い換えれば自身の価値を見出してくれる相手であるから他ならないのでは?と。

因みに終盤、キクりん出生の秘密が明かされるところは、子を持つ親としては素直に感動を覚えました。

 

「幼年期の終わり」アーサー・C・クラーク著(1953年)

なんだか最近は無性にSFが読みたいのです。ということで「2001年宇宙の旅」でも有名なアーサーCクラークの作品。ミステリーの要素もあってなかなか面白かったです。序盤の現実感と終盤のぶっ飛び感のギャップが個人的には少しアレだけども、相対性理論に基づく未来への一方通行タイムマシンの理屈なんかもあり、日常に疲れた脳にはよいリフレッシュになるかと。

タイトルにある「幼年期」は作中では人類のそれを意味するのだけど、単に親から見た子供という視点でも当てはまるのかと思います。子供にとっては親は何でも知っているし何でも与えてくれるし絶対的な立場なのだけど、成長を通じて親にも限界や制約があったりすることを理解する(作中での人類が思い描くオーバーロード)。一方親からみても、無限の可能性を秘めた子供を導くというのは何とも感慨深いものだ(作中でのオーバーロードが人類に託す想い)。

そうゆう意味では「(親は)干渉してはいけない」という言葉にも考えさせられるし、その他一定の規模の組織の統率の方法や宗教といった事柄にも触れられていて奥深い。

とにもかくにも半世紀経っても十分楽しめる作品というのが素晴らしいし、これからももっと名作SFを読んでみようと思いました。

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

 

 

傾くマンションと日本人

相次いで同様のことが発覚しているということはもはやこれは業界で常態化しているということでしょう…?。これは担当とか会社とかの問題ではなく、要因の1つとしては日本人の金銭感覚の欠如からきた結果であるともいえる。

モノには適正価格というものがある。高品質で安いものなんかあり得ない。高品質なものは相応にお金がかかるし、低品質はその逆である。しかし多くの人がそれを錯覚してしまった。マンションにも牛丼のソレを勝手に当てはめているのだ。

「うまい、やすい、はやい」

それはそれとして、経営サイド…似たような事柄が日本を代表するような大企業でも相次いで起きていることを考えると、もう今の日本人に正攻法で利益を出せることを期待するのはナンセンスなんだろうか。まぁ確かに過去の高度成長の成功体験にすがっているようでは、いつになっても変化著しい時代を乗り切っていくことはできないのだろう。

「方舟さくら丸」 安部公房著(1984年)

2回目読了。やはり安部公房作品は期待を裏切らない。いや正直なところ他の好きな作品に比べると必ずしも上位に来るわけではないが、やはり公房故の着眼点は流石である。あえて難を言えば終盤の急展開…登場人物が急増してからの雑多な印象は残ってしまった。因みに日本人作家で初めてワープロを使った作品であるという事らしい…?

内容は今風に言えばコミュ障の自称モグラが世界の破滅(核兵器の脅威)に備えて採石場跡地を塒とし、来る時に備えて共同生活者を探す。といったものだ。つまり現代版ノアの方舟。ただ救済すべき共同生活者は主人公の御目に適う必要があり、その相手をなかなか決められないでいた…。しかし、とあるセールに足を運んだのをきっかけに事態は加速度的に進展していき、、

改めて書く事でもないが本当に安部公房の描く主人公は嫌な性格である。今回も肥満であることを自覚しつつも自責ではないと認識していたり、豚という呼称に異常なコンプレックスを持っていたりする。しかも誰かと対峙する場面では理屈をこねて常に上から目線なのだ。だからといって全てを憎みきれないのは公房ならではで、主人公が嫌な人間であると同時にそれは誰もが共通して保有している利己的なずる賢さのようなものでもある。それを読者に認知させるからだ。いや、仮にそれが私だけに芽生える感情だとすれば、私は世間にとって案外嫌な人間なのかもしれない(笑)

さて現代版ノアの方舟(方舟さくら丸)は主人公の思うように事は運んでくれない。予定では主人公が絶対君主である船長になるはずが成り行きで集まった組織の中ではリーダーとしての力量がないことがバレそうになってしまうし、紛れた女性に安易な下心を抱いてみたりと、現世界で主人公がコミュ障としてひきこもりになった経過を再現するようで滑稽だ。結論はネタバレになるのでここでは書かないが、その物語に加えて魅惑的なアイテムが散りばめられていて楽しい。オリンピック阻止同盟に自身の糞で生きながらえるユープケッチャという昆虫。何でも流せる便器。…公房風に言えば、現代は便器社会ともいえるのではないか?食べる排泄寝る食べる排泄寝る…あ!これってGRAPEVINEの「VIRUS」だな。…そしてサクラ。さくら。桜。

いずれも作品の内容は発表当時(1984年)の時代背景にも通じる部分があるかもしれない。音楽が商業主義に侵されはじめた虚無感や透明感。日本ではテレビゲームが台頭(前年にはファミリーコンピューター発売)。いつでもやり直せるリセットボタン。各国が核兵器を保有し自国の強さの顕示に余念がなく…。いや、言い換えれば今を生きる人々へも十分あてはまる内容だろう。核の脅威に晒され、自分の非を認めない自己中な人々。便器からさほど離れなくても生きて行ける便利な世の中。未来を予見というか、現代における普遍的な人間の本質を見極めていると言わざるを得ない。てことで改めて安部公房はすごいなぁ…と。

方舟さくら丸 (新潮文庫)

方舟さくら丸 (新潮文庫)

 

 

「機動戦士ガンダム展」THE ART OF GUNDAM

気づいたら今週末で終わるということで無理やり金曜日に行ってきました。連休や週末は混むだろうと思い平日に行ったのだけど、それでも割と混んでましたね。平日で正解。まぁ今更新たな気づきがあるわけではないのはわかってはいても、やっぱりリアル…よりほんの少し後世代としては惹きつけられるものがあります。現地は同世代は勿論、当時を知らないような若者や外人も見かけました。

まず初めにプロジェクションマッピングで自身がホワイトベースの一員になった風のアトラクション?というか映像なのだけど、お馴染みの大気圏突入シーンをクルーと一緒に体感します。ミライの後ろ姿がなかなか良かったです。そらブライトさんも惚れてまう…みたいなw 因みに映像の終盤は哀戦士のBGMと共に1stガンダムの印象的なシーンが数分間に一挙に映し出され…ミハルのシーンとか出ちゃうともう涙腺がやばくなっちゃいますね。てことで心の準備は完了!

その後はまぁ普通に原画やセル、模型など順次見てまわるのだけど、富野氏はじめガンダムに関わった安彦良和や大河原邦夫、中村光毅といったスタッフあってこそのガンダムであると改めて思いました。そして子供向けとは思えない緻密な舞台設定やお馴染みの名台詞を思い出すと共にまた見たくなっちゃうし、ガンプラも作りたくなってしまうという…苦笑

やっぱりガンダムジブリと同じように日本の財産だと強く思うのです!

https://instagram.com/p/8C3_5rR955/

駆け込み! #GUNDAM